立田山自然探検隊は、熊本市の緑のオアシス「立田山」の自然に遊び、自然に学ぶ事を目的に、1987年から月例の親子中心の自然観察会を続けています。
☆気がつけば発足から35年余り。350例会を重ね、延べ15000人の皆さんとご一緒に立田山を歩いてきました。
立田山のご案内役
案内役は、㈶日本自然保護協会登録の自然観察指導員(地域の自然を守るボランティアリーダー)です。
私たちは、県内の仲間たちと結成された、「自然観察くまもと(自然観察指導員熊本県連絡会)」に所属し、県内各地で活動しています。
●主な活動フィールド:山、森林、里地里山
●主な活動場所:立田山、北区、中央区
●活動頻度:年間7~12回
緑のオアシス「立田山」
市街地に残された貴重な自然緑地
立田山は、熊本市の中心部から東北に位置する標高151.7mの山ですが、都市化の進展とともに徐々に減少していきました。民有地緑地のこれ以上の開発を防ぎ、市民の生活環境を保全するため、昭和49年度から県市一体となりその公有化を進め、平成7年10月に約150haを買収。生活環境保全林「立田山憩の森」として整備して、多くの市民の健康づくりやふれあいの場として利用されています。
立田山は金峰火山(古金峰山)の外輪山
今から約100万年前、熊本市の西には阿蘇山にも負けない大きな火山がありました。噴火を繰り返した火山は陥没し、西北部が山体崩壊して外輪山が残ります。約50万年前に外輪山の中からに二ノ岳(熊ノ岳)と三ノ岳が、さらに約20万年前に一ノ岳(金峰山)が噴火して誕生。約10万年前に阿蘇4火砕流が流れ込んだため、坪井川をはさんで、立田山は独立した丘陵のよう見えるのです。
昔は「黒髪山」と呼ばれた立田山
コジイやクスなどの濃い緑に覆われ「黒髪山」と呼ばれていましたが、平安時代、肥後国司として赴任した歌人清原元輔(清少納言の父)は、この山の姿に奈良の龍田の里を偲んで「龍田山」と改めたと伝わります。江戸時代、立田山(古代の森)は開墾されて農地や植林地が増えます。戦時中は松根油採取のため松林が消え、戦後は宅地開発が急激に進行。今、立田山には「古代の森」「植林の森」「公園の森」が混在しています。
立田山には古くから人間が居住
黒々と茂る森の幸、裾を流れる白川の幸に恵また立田山。縄文時代や弥生時代の遺跡や遺物(土器)が出土。古墳時代の古墳や横穴は総数200基とも言われ「立田山古墳群」と呼ばれています。周辺に残る地名(小碩、浦山、甲山、城床、弓削、陳内、茶屋原など)や神社やお寺、豊国廟跡、泰勝寺跡、御野立所などの由来を調べてみるのも面白いと思います。
立田山憩の森に遊びに行こう!
平成19年度、立田山憩の森全体を野外博物館と捉え「森林ミュージアム立田山憩の森」として4つの観察コースが整備されました。令和4年、お祭り広場が第38回全国都市緑化くまもとフェアのまち山エリア会場となったのを機に、新たな遊具やトイレも設置されました。子ども達からお年寄りまで、遠足、自然観察会、ウォーキングなどに利用され、新婚カップルの「前撮りスポット」としても人気上昇中です。
会長あいさつ
キャッチフレーズは、
素敵な瞬間(旬感)見つけたい(隊)
立田山自然探検隊は、1987年(昭和62年)、「家族一緒に立田山で遊び、自然と親しもう」「子どもたちの自然を愛する心を育もう」と発足しました。
春は新緑や七草、野鳥の子育て、夏はカエルやトンボ、秋はキノコやドングリ、木々の紅葉、冬は生きものたちの冬越しなど、同じ場所、同じ植物、同じ動物でも四季折々、刻一刻とその姿が変化します。そのような自然環境や生き物たちの「旬」を、毎月1回の例会を通じてじっくり観察します。
言うまでもなく自然や環境を護りたいという気持ちは、豊かで恵まれた自然や環境が「心地よい」という気持ち = 体験 = 記憶から生まれてくるものです。
私たちは、子ども達にバッタやチョウを追いかける、モグラの穴を掘る、タンポポの綿毛を吹く、ドングリを拾う、オニグルミを食べるといった「身近な自然」の中で遊ぶ体験、触れ合う機会を提供することで、子ども達の心に「こんな豊かで恵まれた自然や環境を残したい、護りたい」という気持ちが育まれるよう願っています。
立田山はこのような自然と遊び、自然に学び、自然を愛する心を育む格好のフィールドです。
立田山自然探検隊は、これからもスタッフ一同力を合わせて様々な工夫を凝らし、立田山の魅力や不思議との出会いを大切にした活動に努めたいと思います。
私たちと一緒に立田山の自然探検を大いに楽しみましょう。皆様のご参加を心からお待ちしています。
立田山自然探検隊 会長 藤 井 由 幸
(日本自然保護協会登録 自然観察指導員 №2162)